茜色弾道弾

このよのすべて

繁忙(?)

 最近忙しい。やることが多い。映画見たり小説読んだり課題やったり。普通は趣味であって、特別その一日で熟すべき急務というものでもないのだが、僕の場合は定めて、それを必ず一日の裡にやるようにしている。といってもそれを達成できずにいるけれど。一日の裡に本は一冊読んで、映画は二本ほど鑑賞して、課題を一つ終わらせる。そういう目標ではあるけれど、全然やれない。しかしやってはいる。完璧にはできない。しかしやってはいる。その為に多忙で、ゲームをやって遊ぶ時間やこのブログを書く時間が減っていて、ブログも一日一記事のつもりだったけど、おざなりになってきている。もっと無駄を減らして頑張ろうと思う。

 昔気に入っていた女子の声が井口裕香に似ている。なので僕は井口裕香が好きなのである。勿論井口裕香よりその子の声は可愛くはないのだけれど、どこか重ねてしまう。今も白金ディスコを聞きながら書いているが、やっぱり音楽を聴きながら執筆は捗らないので、やめる。

 僕は声が好きで、声の澄んだ女性が好きだ。自分の声は世間でいうドブボなので、好きではないし、判然と言えば嫌いである。録音された自分の声を聴くと含羞とか嫌悪とかで顔を顰めてしまう。

 最近はASMRが流行して、その為多くの女性が参入してYouTubeじゃあ人気コンテンツだ。僕が好んで聞くのはVtuberのASMRである。それはなぜかと言えば、一般人のASMRはその音、爪で何かを叩いたり、特製のスライムを包丁でざっくり切ったり、変な道具で特別な音を鳴らしたり。そう云うのばかりで、僕はあまり好みじゃない。

 僕は人の声が聴きたいし、何より人の素の声が聴きたいのだ。素というのは別に地声というのではなくて、もっとこう……完璧な構成とか、究極に心地よい響きとか、台本通りのプロフェッショナルな作業とか、そういうものに辟易するので……その人の本当の姿が聞きたい、という少々変態的な願望である。そりゃあ偶にならそういう完全無欠で無印良品に並んでそうな動画を楽しむときもあるが、就中完成されているからどうも無難で退屈なのだ。というのも、何事も極めていったら退屈で、面白くないと僕は考えている。人は、大人が何か計算された演技をするよりも、犬が無邪気にボールで遊んでいる動画を眺めたほうが癒されると思う。人間の子供が楽しそうに駆け回ったりしている映像。そういうものを真の癒しと僕は考えている。大人が綺麗な衣装を着て壮麗な舞を踊っているのを見たところで、如何せん美しいという感想があって、そこに癒しを見出せるほど発達した感性を僕は持ちえない。

 然し乍ら、人間には立派な向上心がある。なので、ASMRにこなれてくると、みんな似たような、素晴らしく無駄のない、素敵な音色を出してくる。その無聊千万な光景に僕は食傷し、すっかり飽き飽きしているのだ。

 僕が理想とするのは、バイノーラルマイクを手に、あれこれ試行錯誤したり、それを聴いている聞き手を揶揄ったりする、まさに子供にマイクを持たせたような、無邪気なASMRなのだ。

 本題に入る。何故僕がVtuberのASMRを好むかと言えば、Vtuberは普段からキャラになり切っていて、そのために、ASMRをやる時も、キャラで居続けなければならない。なので、逆に素が漏れる事態となっているのが現状である。普通の人はASMRをやる時に、音だけを追求するのだ。Vtuberの場合はあくまでアイドルらしく、視聴者との対話も兼ねなければならない。意図せずに、無意識で僕が理想とする、そういう設計になっている。

 故に、VtuberとASMRの相性はかけがえのないほど尊く、僕としてはASMRはVtuberの為にあるとさえ断言できるほどである。

 よく一般のASMR配信者はオノマトペを使うが、あんなのは所詮楽器と同じで、僕はそこにもう少し人間の香り、というか生物の温かみある行動が見たいのだ。「予想外」を求めている。ほぼすべてのASMRにあり得ない事態というのはない。万事、最初から終わりまで、計算されつくして行われている。その退屈な様。

 僕は難しいことは注文していない筈だ。望むのは、もう少し視聴者に対して少女然と居直れないのか。もう少し、大人を捨てて子供っぽく振舞えないのか。大人でいてもいい。なら大人の女として視聴者の男を弄んでみようと思わないのか。Sな人間はASMRを聴くとは思えない。何故なら聴覚の一切を配信者側に一時提供する行為に他ならないではないか。それはある意味屈辱的だし、何をされても文句を言えない状況は情けない。ASMRはM向けにシフトしていくべきである!!

 VtuberのASMRで一番上手なのは周防パトラだと思う。一時期は彼女も技術面の向上のみを追いかけて、私的に危ういなと思って離れていた時期もあったが、最近聞いたら、周防パトラというキャラと、ASMRそのものの魅力に於いて、絶妙なバランスを保っていて、驚嘆した。Vtuberに大切なのは「○○がやっているASMR」という状況を如何にして表現するかである。ASMRこそ最も身近に視聴者と接近するコンテンツであって、新規視聴者獲得に今一番むいているジャンルである。より力を入れて、動画を作ってほしい。直近で健屋花那が新しくASMR配信をしていたが、良かった。課題は多いが、それでも初心者のあのたどたどしさや、知らないからこそ玄人はしない急接近だったり、実験的な行動があって、僕は楽しかった。刺激的な時間だった。ああいうのをもっと欲しい。どうしてみんなつまらなくなってしまうのか。遊びが必要なのだ。無駄をなくしたら勿体ない。雑音があったり生活音が漏れたり……そういう本来余計なものがすごい武器になったりする。依然ASMR界は発展途上なので、今後どのように成長していくのか、非常に楽しみである。

 どうしてこんな話題になったのか。頭が混乱していた。なので勢いの儘こういう内容の記事を書いてしまうのだ。まあ今日も基本寝っぱなしで、書く内容に不自由していたから、一応よかったのかもしれない。たまにはこういう意味不明な勢いだけの記事も書く。自由が大切なのだ。縛られたブログにはしたくない。このブログの目的は、ここで明かすのもなんだが、完全な僕自身の解剖なのである。そんなものを公開するなと言われそうだが、公開して少しでも有意義な行為であるという──幻惑だろうと──認識がなければ、とてもじゃないが、そんな自身の解剖という七面倒なことに労力を費やすモチベーションが毫末も湧かないのである。なので、こうして恥を忍んで日々綴っているのである。

 そういえば、どうしてこんな堅苦しい文体が染みついてしまったのかといえば、感受性の高い大切な時期に大正・昭和の純文学ばかり渉猟していたからだと、思い当たった。昔はもっとラノベチックな今どきの緩く簡易で親しみ易い文章を書く人だったのだ。中学の時は文章が褒められたこともあったけれど、いつしか変に拗らせちゃったみたいだ。まあここから現代風に発展させれば或いはオリジナリティが芽生える可能性も無きにしも非ずだと思われ。

 乙。